出口智久さんコラム「45年間、動物園を続けて思うこと」第3話『飼育員は発明者』



3-1 解明されていなかった野生動物たちの飼育

動物園が飼育している動物は野生動物が大半です。その野生動物たちの生態は、まだ解明されていないものばかりです。特に、1970年代や1980年代の私が動物園界に入った頃に至っては尚更、分からないことばかりでした。

一方、当時の動物園には新しい種の動物たちが海外から入って来ました。また、大学の研究対象も僅かに野生動物の生活サイクルや食性などについて研究を始めたところでした。特に、農学部の獣医学や畜産学も家畜が主な研究対象で野生動物においては、正規の研究対象とは成っていませんでした。こういった状態でしたので、飼育員は手探りの飼育を余儀なくされたのです。経験や知見、知識を総動員して飼育に取り掛からなくてはならないのです。

動物飼育に興味を見出した飼育員の藻掻き

この当時、動物園飼育員は地方公共団体の現業職員が多く、決められたルーティンの仕事をこなすことが多かったのですが、一部の動物飼育に興味を見出した飼育員は何とか飼育技術を向上させようと藻掻くように成るのです。ここで、センスのある飼育員は、自身の信じた理にかなったと思われる飼育法を始めるのです。傍から見ると一見変な事と思われることも、本人は自分の信じる理が有るので、他の飼育員はこれを覆させる根拠も情熱もなく、ただ見ているばかりです。こうやって、飼育に多くの手法や手段が生まれてきたのです。ただ、職人技と言われるもので他に広がることが有りませんでした。

楽しみだった研究会

これを広めることになるのが、(公社)日本動物園水族館協会が行う、全国や地方ブロックでの飼育研究会の開催です。この研究会を通して、飼育員が多くの発見事案や技術を発表して全国に広がることになったのです。その後、動物園の世界にも研究者が増え、大学等の研究者も参画して、この技術の裏付けをしてくれるようになりました。やがて、学術レベルの高い発表が多くされるようになりました。喜ばしいことです。さらに、研究会は学会と肩を並べるレベルを要求されるようになりました。以前の突拍子もない発想の発表を楽しみに研究会に参加していた者としては、少し寂しくは思いました。

3-2ラッキーだったこと

私がラッキーだったことは、入社した当時のフェニックス自然動物園は、担当の動物の飼育は当たり前のことです。それを上乗せするために夜遅くまで残って動物園内で観察をすること、人工繁殖に取り組むこと、何でも了解して頂きました。こういった背景の元、本当に面白い飼育を経験しました。他の園においても思わぬ発見が続きました。

動物園での発見

一部ではありますが、紹介します。ダチョウの繁殖、マサイキリンの年中屋外飼育、インドトキコウの自由飛翔、アカクビワラビーの無毛状態で袋から排出された幼体の人工哺育、フラミンゴの飼育と繁殖に関すること。

ダチョウの繁殖

昭和49年の頃、ダチョウの孵化温度設定はニワトリと一緒の38℃で行われていました。ところが、発生の途中で卵の中の胚が死んでしまうのです。全国の動物園でも同じ状態でした。

ある時、飼育員の前にメスのダチョウがプレゼンテーションをしながら座ったそうです。飼育員はそのダチョウに飛び乗って体温を測ったのです。なんと38℃しかなかったそうです。鳥の体温は40℃を超えていますので、思い切って孵化温度を36℃に下げたのです。この当時孵卵器は高価だったので、勇気にいった行為だったと思います。その結果が42日後の孵化につながりました。

その後も半年でふ化時の体重1㎏弱の雛が90㎏まで成長するダチョウですから、雛の成長の速度と運動には相当苦労することにはなりますが、見事に繁殖に成功したのです。不思議なもので、同じころ、浜松市の動物園でも同じような発想で同じように成功したのです。それではどちらが日本で初になるか、気になるところです。1週間だけフェニックスが早く孵化したのです。

雌が産卵した卵を雄が転がして巣に運んでいる。卵のある窪地は雄が作った産卵用巣
ふ化した雛たち
マサイキリンの年中屋外飼育

宮崎は温暖です。日本中、最高気温はそれほど変わりませんが、冬、氷点下になる夜が宮崎では短いのです。そこで、開園当時の園長はキリンを導入した時にアフリカの夜が氷点下になることを経験して、キリンは群れで年中屋外飼育をすることにしたのです。

ただ、約10m×約20mの寝室は用意していました。それでも、担当の飼育員は、屋外に日よけと雨よけを兼ねて屋根だけは後付けで設置しました。キリンも、同じ混合飼育で同居をしているダチョウ、シマウマ、オグロヌーは年中屋外で過ごすことになるのです。

動物たちにとっては、これで、長い夜間も自由に動き回ることができるようになったのです。しかし、台風の風雨の強い時だけは寝室を開放しました。すると、いつも一定の距離感を保っていた動物たち全員が避難して寝室で一緒に過ごしているのです。不思議な光景です。

展示場を一緒に過ごす、マサイキリンとグラントシマウマ、ダチョウ
台風時に寝室へ避難
繁殖当年だけは冬季に夜間暖房を

計算外だったのは、生まれたばかりの赤ちゃんキリンは冬の寒さが苦手のようでした。飼育担当者の観察で高さ1.5mに設置した温度計が14℃以下を差すと糞便が柔くなることが分かりました。

そこで、すぐに農業用暖房機を設置しました。ただ、翌年1歳になると暖房が無くても平気になりました。

キリンの親子
インドトキコウの自由飛翔

園内を自由に飛び回るコウノトリを見れたら素敵ではないでしょうか。この夢をかなえてくれたのがインドトキコウです。とても集団性が高く、帰巣性と留鳥性が強いので、自由に飛び回っても必ず戻ってくるのです。その生態を利用しました。

開始に当たっては、鳥類学者と生態への影響に関して協議し最高放飼羽数を10羽までと決めました。安全な飛翔を開始する方法も開発しました。中途半端な飛翔力だと園外にいる害獣の餌食にされてしまいます。

飛翔中のインドトキコウ
園内の松の上で繁殖(写真は母親)

ただ、40年近く実施していたインドトキコウとクジャクの自由飛翔も高病原性鳥インフルエンザの対策でフライングケージ内飼育することになってしまいました。この間、様々な観察、発見と工夫がありました。悲しいこともありました。振り返ると飼育員としては、とても楽しい時間でした。しかし、残念ながら最後のインドトキコウも死亡してしまいました。

丸裸のアカクビワラビーを皮膚用クリームで保護

1983年のこと、アカクビワラビーのまだ無毛状態の子供が展示場に転がっていました。母親の袋に戻す試みが上手くいかずに、人工哺育を試みることにしました。まだ、保育器が高価で買えない当園では、孵卵器を改造して保温を確保しました。勝手に改造してしまいました。

ミルクの濃度は報告のあったスナイロワラビーの人工哺育を参考にしました。哺乳方法はまだ無毛の幼体では吸う力が弱く、人工哺育ではタブーとしている口の中に流し込むことにしました。不思議だったのは口いっぱいミルクが溜まっていても誤嚥をすることはなかったのです。哺乳量は、体重の0.75乗をベースに目標を決めて、その量を流し込みました。

最大の難題は丸裸なので皮膚の乾燥でした。なかなか良い方策が思いつかなかったので、母親のおなかの袋の中に手を入れてみました。ねちゃーと手が油まみれになってしまいました。しかし、油性だと汚れが取れないことが考えられたので、水性皮膚用クリームを頻繁に塗ることにしました。その後も離乳や成長で面白い経験をすることができました。

ただ、数年経った後、カンガルー類は牛乳から作る人工ミルクの乳糖の消化が上手くいかないことが分かりました。良く育ってくれたと赤ちゃんワラビーに感謝するばかりです。

アカクビワラビーの袋の中と乳に吸い付く赤ちゃん(長い管みたいなのが乳首)
フラミンゴの飼育
チリーフラミンゴの群れ

フラミンゴの繁殖は池で雌が立ったまま状態になり、雄がその上に飛び乗って交尾をします。それまで、多くの動物園が行っていたオープンケージ飼育のための切羽(飛ぶ羽を切ること)をする限り、有精卵を得る確率が極端に低くなります。これは、偶然に解決策が見つかるのです。

それは、神戸市の動物園でカラス除けに展示場をネットで覆うことで、切羽をする必要がなくなったのです。これで、孵化数が驚異的に伸びました。フェニックスは直ぐに真似をして展示場に低いネット製の屋根を付けました。勿論、切羽はする必要が無くなりました。

しかも、神戸市から繁殖経験個体5ペアを導入して繁殖を促しました。導入したフラミンゴたちは到着した途端にこれまでのペアを解消して、それぞれ新たなペアを作って30羽近くの繁殖に成功しました。

フラミンゴは泥で円柱状の巣を作り、卵は1個だけ産みます。しかも、巣は集団で密集して繁殖しますので卵が転げ落ちてしまうことも多く発生します。そこで、人工育雛になります。

フラミンゴはそのミルクで育ちます。最初に成功したのは常盤市の飼育員です。そのミルクを簡易なネコ用ミルクに変えたのが周南市の飼育員です。その飼育員は「ライオンが育つネコ用のミルクでフラミンゴが育たないはずがない。」と言ってはいましたが、ミルク濃度の安定と調整など相当な工夫をしたようです。それを聞きつけて、また、真似をしました。

さらに、フラミンゴミルクには赤い色素が含まれていることから、フラミンゴの餌(赤い色素を含んでいる)を液状に溶かして、早い時期から食べさせる工夫をしたのがフェニックスの飼育担当者でした。これが国内の常識になっていると思います。

(フライング・フラミンゴショーの話は次話に)

フラミンゴの人工育雛(授乳中)

3-3 楽しい教育的なゲームの開発

動物園では動物を介して興味や不思議に思う気持ちを育てて頂くことも大切です。フェニックスはダチョウの飼育数が多く、卵も多く所有していました。そこで、ダチョウの卵が固く、孵化のためには割れやすいことを解説するために、実験を工夫しました。 中身を抜いた卵の殻に子供たちを乗せて、その固さを体験し、最後に大きな大人(100Kg超えが理想)に乗って頂くと歓声が起きます。その後、ひ弱な女性にダチョウの卵殻の欠けらを手で簡単に半分に割って頂くと「ふ~ん」と納得の感嘆が聞こえます。きっと、ダチョウの卵の不思議を実践して頂けたと思います

100㎏の大人が乗っても平気です

3-4 道具も発明です

飼育員はサイズや利き手などに合せて自分の都合の良い飼育道具を開発します。各自のオリジナルです。いわばこれも発明です。時には、大柄の飼育員が、砂や糞などを床が固いセメントの上を押して清掃するために、幅広いスコップ様の道具を休日に溶接所に行って作って来たことさえ有りました。欠点は重すぎて作成者しか使えないことですが。

さて、ちょっとした工夫ではありますが、アフリカ園等の広い展示場を掃除する時には、熊手と塵取りを使って糞取りするのが基本で、既製品をちょっと工夫するのが通常です。この道具は何代も続く飼育員の変遷に沿って微妙に変わって行きます。全部が個性的で紹介したいのですが、現在使っている道具を写真で紹介して飼育員の発明の締めくくりとします。

キリンの糞は残って、砂はすき落ちるように金網を張っています

寄稿者profile



出口智久 (でぐちとしひさ 1953年生まれ)

略歴

(特非)宮崎野生動物研究会 事務局長
宮崎市フェニックス自然動物園の前園長。大分市出身

1976年、宮崎大学農学部畜産学科卒業。1977年、フェニックス国際観光株式会社に就職しフェニックス自然動物園の飼育課に配属。以後、飼育員として、アジア、アフリカ地域の大形草食動物、チンパンジーなどの霊長類や鳥類、ニホンカモシカ、コシジロヤマドリ、モグラなどの国内産野生動物、アカクビワラビーなどの有袋類、爬虫類他、様々な野生動物、産業動物の飼育や繁殖に携わる。

1989年、カナダとの飼育キーパー交換研修にてウィニペグ市のアッシニボイン動物園にて海外動物園の飼育員を経験。

2001年、フェニックス国際観光株式会社倒産、動物園の経営が宮崎市となり、宮崎市と宮崎銀行が設立した宮崎市フェニックス自然動物園管理株式会社に継続採用され飼育課長として配属。2004~2021年、同動物園園長。2012~2020年(公社)日本動物園水族館協会理事、2016年~2020年同協会副会長。現在は宮崎野生動物研究会事務局長(副理事長)。九州医療科学大学ならびに宮崎総合学院の非常勤講師、宮崎県博物館協議会委員などを務めている。

新聞掲載

  • わくわく動物図鑑:宮崎市フェニックス自然動物園(朝日新聞宮崎総局2009年~2010年)
  • シリーズ自分史:動物とともに(宮崎日日新聞2022年~2023年)
  • ふるさと宮崎自然図鑑:宮崎野生動物研究会員共同投稿(2023年~)

機関紙(掲載・編集)

  • あしあと(フェニックス自然動物園)
  • わいるどらいふ(宮崎野生動物研究会)
  • どうぶつだより(宮崎市フェニックス自然動物園)

監修

  • 宮崎市フェニックス自然動物園50周年記念誌「50年のあしおと」(宮崎市フェニックス自然動物園)