目次
1-1このプログラムは止めないといけないな。動物園としては役割が終わったんだな。有難う
私が動物園界に入ったのは昭和52年(1977年)、退職が令和4年(2022年)のことです。動物園界勤務期間は45年間です。その間には、こういった心の会話が何度かありました。
退職の日を迎えた時私には、動物園に胸を膨らませて就職したのが、昨日の様でした。私は、フェニックス自然動物園が誕生50年を迎えた時に園長職を辞することを申し出ました。
私なりの決め事がありました。
一つは、先人から受け継いだ動物園を50年間死亡事故ゼロで終えること。2つ目は、動物園の50歳の誕生日は私が園長として迎え、50周年記念催事は新しい園長によって迎えたいというものでした。
そして、先輩社員とよく話していたことがあります。まだ、私が飼育課長だった頃のことです。
「フェニックスにマサイキリンが絶えたら、責任とって辞職をしよう。」
この会話が退職するまで私の頭の中に残っていました。一時、3頭に減り少し危うかったのですが、年配キリンがメスの赤ちゃんを出産してくれました。口蹄疫禍のことです。
園長が3人変わっても果たされた約束
その当時、マサイキリンは鹿児島、熊本、宮崎の3市の動物園でしか飼育してなく、国内頭数も10頭を切っていました。そんな時、熊本市動物園のマサイキリンが妊娠したことを聞き、次世代のマサイキリン飼育を危惧して、当時の熊本市動物園長に出産した子供が雄個体だったら、宮崎市の動物園に婿入させることをお願いしていました。
キリンの妊娠期間は450日を超える長い期間です。
その後、熊本市動物園は園長が3名変わりました。さらに、父親キリンが死亡したにも関わらず、熊本市の動物園は約束を果たしてくれました。熊本市の保全意識の高さに感服と感激したものです。
増殖の海外チャレンジに失敗とマサイキリンへの思い
マサイキリンの増殖の海外チャレンジは、その数年前から始めていました。
動物園の経営元である宮崎市の担当課の職員と協議し、当方から雄個体をアメリカの動物園に搬出し、そこで、繁殖した個体を宮崎に返して頂くことはできないか、日本動物園水族館協会の種の保存会議キリン担当者を介して、アメリカの動物園の協会に打診をして頂きました。
ところが、この当時すでにアメリカでは、マサイキリンが飼育されていないことが判明して計画が頓挫してしまいました。
マサイキリンは、フェニックス自然動物園初代園長が直接にアフリカへ渡って運んできものです。
また、フェニックス動物園の飼育動物を充実させる原資として、その子供たちを国内外の多くの動物園に送り出もしました。私たち飼育員にも特別な思いがありました。
私の歩んだ動物園生活は、当初、多く動物園の誕生と野生動物が多く導入されました。発展と多様性の時代から始まり、晩年には動物園飼育下の野生動物の減少や越境性伝染病の来襲、動物福祉に代表される飼育技術の熟成、環境の大きな変化等々、そして、更には動物園のあり方について様々な悩まされる懸案が散在するものでした。
1-2.断念した動物園のプログラム
フェニックス自然動物園は、民間経営ではありながら、宮崎県内唯一の動物園として誕生した経緯もあり、誕生から公共性を担わされていました。実際、「利益はホテルが出すので、動物園は市民住民に対して社会的役割を果たすように」と入社時に伝えられました。市営の動物園となってからも、私が動物園を離れるまで動物園の役割だけを意識すれば良かったことは幸いでした。
私の先輩たちは、社会教育(現在は、教育活動)と、保全には幅広いプログラムを持っていました。50年間継続する作文や小中学生を対象とした絵画コンクールまで実施していました。今も続いているとのことです。
その中で、どうしても続けられなかったプログラムが2つあります。「移動動物園教室」と「出水のツルに落穂プレゼント」です。 今回、紹介の機会を得たことに感謝します。
1-3.移動動物園教室
県内のへき地指定の小学校へ
このプログラムは、似たような活動は多くありますが、ここまで、地域と密着したプログラムはおそらく国内では唯一の取り組みだったと思います。
1975年当時の宮崎県内の交通事情は、まだ、良いとは言えず、宮崎県内の多くの地域の住民は容易には動物園へ訪れることができませんでした。
そこで、動物園がオフ期になる梅雨の時期を利用して、県内のへき地指定の小学校を訪れて動物園教室を行うことにしました。動物園の上司で恩師が始め、私が引き継いだプログラムです。
このプログラムには条件がありました。
- 1.開催時期は梅雨の時期の動物園の休園日(水曜日)含んだ火曜日と水曜日の1泊2日。
- 2. 開催場所は動物園から遠隔地のへき地指定小学校で、分校があれば分校にて実施。
- 3. 受入側の条件
(1)動物園職員の宿泊所の提供、校長や教員の宿舎や公民館などを利用することが多く、旅館等は断ることにしていました。
(2)放課後の地域住民への動物園教室ならびに交流会の開催など小学校PTAの全面協力があること。地域住民にも参加を促す広報を実施すること。
(3)事前打ち合わせは、PTAと綿密に実施すること。
小学校が文化の中心
小学校を開催地にしたのは、へき地地区では小学校生徒の在籍に関わらずに住民の全員がPTAであることが多く、その地域の教育的行事の金目であり、いわば、文化の中心でした。その中心が校長先生であったからです。
こんなことがありました。開催の数日前に大雨が降り、小学校に向かう道が不通になり開通工事が始まっていました。その時、校長から電話があり、「制限区域に到着したら、工事作業員に動物園から来たと伝えてください。」との連絡が入りました。連絡のとおり、制限区域に近づくとその前に作業員が走ってきて「どうぞ、通れるようにしておきました。」とのことでした。まさに、地域の中心に小学校があった時代の出来事だったと思い出します。
地域の方々と思いを共有
事前、打ち合わせと学校の下見も欠かせません。PTA会長との打ち合わせでは具体的な人手と時には重機の搬入等いつも充実したものでした。
梅雨時期の山間地の夜間は10℃程度に気温が下がることがあります。サル類やは虫類には簡易な暖房が必要になります。勿論、野生動物からの防御も必要になるからです。綿密な打ち合わせが肝心です。打ち合わせることによって、この教室への思いが共有できるからです。
プログラムは、動物を約20種40点(ポニー、ラマ、フラミンゴ、レインボーボア、時には子供のチンパンジー他)の飼育や、それに伴う動物園教室を開催するものです。もちろん、地域の方々との交流を広めるプログラムを用意します。(プログラムの詳細は省略)
このプログラムの説明で、PTAの方々と開催に向けての距離感が一気に近づき、共有することをいつも実感しました。その意味で、事前打ち合わせの準備には力を注いでいました。
訪問した小学校
1975年、第1回目として椎葉村仲塔小学校財木分校を訪れて以来、2007年まで34回実施しました。その間に訪問した学校は以下のとおりです。
西米良村板谷小・尾股小、北郷町黒荷田小・北郷小、延岡市島野浦小・安井小、えびの市加久島小尾八重野分校、五ヶ瀬町鞍岡小本屋敷分校、串間市大納小・大平小、諸塚村七ツ山小、西米良村小川小中学校・西都市白銀小、須木村内山小、日之影町小原小、えびの市飯野小高野分校、椎葉村尾向小、延岡市須美江小、日南市大窪小、都城市吉之元小、南郷村水清谷小、えびの市西内方堅小、木城町石河内小、都城市御池小、北浦町三川内小、えびの市上江小霧島分校、椎葉村不土野小、五ヶ瀬町桑野内小、串間市金谷小、西郷村山瀬小、日之影町日之影小、日南市吾田小1年生、日向市財光寺南小高学年、北郷村黒木小、椎葉村小崎小(大河内小)、延岡市島野浦小、串間市笠祇小、えびの市加久藤小尾八重野分校です。
2005年からは当園のボランティアも参加していただき、より一層の充実が図れたと思っています。
1-4.なぜ、移動動物園教室を止めることになったのか?
直接のきっかけは、2008年に宮崎県内で発生した口蹄疫禍です。移動動物園の対象地区は畜産業が盛んです。偶蹄動物つまりヤギなどを連れて行く訳には行かないし、シカやキリン、ヤギ、イノシシの飼育者が行く訳にも行かなったのです。そして、その後、宮崎では、高病原性鳥インフルエンザの流行が多発しました。
また、動物園飼育で常識になっている動物福祉の普及もあります。野生動物を狭いところに閉じ込めて行う教育活動は、野生動物とヒトとの関係に間違った教育を行うことになることにを動物園が気付くことになったのです。
何よりも、交通事情の改善により、動物園に訪れることができない方々、取り分け子供たちが、ほとんど居なくなってきたことも大きな要素になりました。つまり、実物の国外に生息する野生動物を紹介することも当初の移動動物園教室の大きな目的でした。
そこで、このプログラムは終わることにしました。 ただ、その後、園外における動物園教室は、家畜や愛玩動物などのヒトと共の移動や触られることにストレスを感じない産業動物を使用して「動物ふれあい教室」として小学校を訪れて行うことになるのです
寄稿者profile
出口智久 (でぐちとしひさ 1953年生まれ)
略歴
(特非)宮崎野生動物研究会 事務局長
宮崎市フェニックス自然動物園の前園長。大分市出身
1976年、宮崎大学農学部畜産学科卒業。1977年、フェニックス国際観光株式会社に就職しフェニックス自然動物園の飼育課に配属。以後、飼育員として、アジア、アフリカ地域の大形草食動物、チンパンジーなどの霊長類や鳥類、ニホンカモシカ、コシジロヤマドリ、モグラなどの国内産野生動物、アカクビワラビーなどの有袋類、爬虫類他、様々な野生動物、産業動物の飼育や繁殖に携わる。
1989年、カナダとの飼育キーパー交換研修にてウィニペグ市のアッシニボイン動物園にて海外動物園の飼育員を経験。
2001年、フェニックス国際観光株式会社倒産、動物園の経営が宮崎市となり、宮崎市と宮崎銀行が設立した宮崎市フェニックス自然動物園管理株式会社に継続採用され飼育課長として配属。2004~2021年、同動物園園長。2012~2020年(公社)日本動物園水族館協会理事、2016年~2020年同協会副会長。現在は宮崎野生動物研究会事務局長(副理事長)。九州医療科学大学ならびに宮崎総合学院の非常勤講師、宮崎県博物館協議会委員などを務めている。
新聞掲載
- わくわく動物図鑑:宮崎市フェニックス自然動物園(朝日新聞宮崎総局2009年~2010年)
- シリーズ自分史:動物とともに(宮崎日日新聞2022年~2023年)
- ふるさと宮崎自然図鑑:宮崎野生動物研究会員共同投稿(2023年~)
機関紙(掲載・編集)
- あしあと(フェニックス自然動物園)
- わいるどらいふ(宮崎野生動物研究会)
- どうぶつだより(宮崎市フェニックス自然動物園)
監修
- 宮崎市フェニックス自然動物園50周年記念誌「50年のあしおと」(宮崎市フェニックス自然動物園)