2-1出水のツルに落穂プレゼント
もう一つが、域内保全プログラムの「出水のツルに落穂プレゼント」でした。こちらもユニークな取り組みです。発案者は当時の園長と副園長です。ふたりとも動物園の教育活動や保全、研究、レクリエーションに先進的な目を持っていました。私も、「背中を見て学ばして頂きました。」当時はそうそう指導をしてはくれませんでした。
2-2きっかけと目的
鹿児島県出水市に飛来するツルたちの餌不足
鹿児島県の出水市ヘ越冬しに飛来するナベヅルやマナヅルは有名でしたが、1979年当時、ツルたちの餌不足で困っていることがニュースとして報じられました。そして、越冬地内に農地があり、その農家とトラブルがあることを知らされました。このニュースを耳にした当時の園長が発案したと聞いています。
その当時、日本の米は専売制でした。また、宮崎では早期米の栽培が盛んで、田植えが年々早くなっていました。それに合わせて、収穫の稲刈りも早くなっていました。秋の田圃は、“しって”と呼ばれる2番穂が実って放置されていました。この稲穂を何とか利用できないかと利用法を考えていたそうです。そこに、このニュースが耳に入り、結びついたとのことでした。
宮崎で放置されていた稲の2番穂を運ぶことに
動物園では「出水のツルに落ち穂プレゼント」と名付けて、宮崎で2番穂を集めて、出水のツルたちに餌として運ぶ活動を実施することになりしました。まずは、受け入れ先です
この当時、出水で自分の畑を冬季ツルに開放していた農家の方がツルたちの保全活動をしていることは知られていました。相談して受け入れを承知して頂きました。
動物園と小学校が協力をして収穫
もう一つは、この運動を動物園だけのものにするのではなく、宮崎の保全運動として広げる方法も考えていました。動物園より10km離れた国富町の小学校と協力して、学校の行事にPTAを巻き込み農家の2番穂を全校生徒で収穫する授業を行いました。
授業にはフェニックスの職員が出かけて、ツルの生態や飛来するマナヅルやナベヅルの保全状況などを説明して、2番穂の稲刈りを行いました。収穫した稲穂は動物園でもみ米にして、出水に届けることにしたのです。地元のツルを保全する方々には大変感謝されました。
報道にも度々取り上げられて、以後、毎年実施して参りました。私はこの運動を始める一連の活動に参画出来た事に、ただ感激するばかりでした。
時と共に変化が訪れました
この運動は、年々、集まる稲穂が増えていきました。ところが、日本人のお米を大切にする文化から、この稲穂に古米が加わって益々量が増えていきました。やがて、農法が変わり、田圃には2番穂が少なくなりました。集まる多くは古米になってしまいました。ただ、集まる量はダンプで運ぶ限界2トンを超えるものになりました。大手の運送会社もお手伝いを申し出て頂くようになりました。
2-3プログラム完了
公的な保全活動の開始と感染症の心配
ところが、現地の出水市にも変化が出始めていました。ツルたちの保全活動も公的にプログラムされるようになり、飛来したツルたちの餌不足が解消されるようになりました。
1995年には、出水市ツル博物館「クレインパークいずみ」が開設され、本格的に活動は始まりました。新たな懸念が発生しました。日本へ越冬に来る1万羽に及ぶマナヅルやナベヅルは、生息しているナベツルの大部分とマナヅルの多くの割合を占めていたのです。しかも、出水市一か所に集まることが分かりました。
万が一、この出水市で感染症が発生した場合のことを考えて、越冬地の拡散を模索していました。合わせて、出先のはっきりしないフェニックスからの古米の受け入れも配慮しなくてはならなくなりました。
「出水のツルに落ち穂プレゼント」終了とその後
そこで、2005年に、このプログラム「出水のツルに落ち穂プレゼント」は、出水のツルが如何に貴重な社会の財産であることを周知できたという十分な成果を果たしたとして、また、十分に社会へ貢献したとして完了することにしました。
その後、高病原性鳥インフルエンザ禍が九州を度々襲うようになって、動物園在籍中は、ツルの越冬地を見学に行くことさえ控えるようになりました。昨年、動物園を退いたのを機に、ツルに会い荒崎の飛来地を訪れました。相変わらず、1万羽を超すツルたちが飛び交う姿は壮観でした。ただ、近隣の海岸から続く河川に居たカモたちの姿がめっきり少なくなっているのが気になるところでした。
同様に、昨今、ドジョウやトノサマガエルなどの姿を見なくなったことに、どのように対処していけばいいのか、大変重要な課題でしょう。動物園はどのような役割を担うのか、今後、地方の動物園に科せられる大きな課題になると思います。
最後に、これまで、動物園で行った保全活動を簡単に紹介します。
2-4 保全活動
保全活動として思い浮かぶのは、国内の動物園が全国的に協力して展開して参りました種の保存(域外保全)です。動物園界に認知普及して協力体制も確立されています。フェニックスも、チンパンジー、レッサーパンダ他、多くの種で協力しています。
人気者のゴリラを種の保存に協力して搬出
ここで思い出されるのが、1993年のことです。まだ、国内の動物園には種の保存の思想が完全には浸透していない頃のことです。希少種は人気者が多く、園は手放すことに躊躇する時代でした。ゴリラともなるとなお更の事でした。そこに、上野動物園がゴリラの繁殖計画のため、国内の単独飼育の個体を集めたいとの申し出がありました。
そのとき、一番に手を上げたのがフェニックスでした。当時の動物園や会社に感服するしだいです。残念ながら、上野動物園に出向いた雄のゴリラ(ドラム)は子孫を残すことは出来ませんでしたが、そのことがきっかけとなり、海外から協力を得て上野動物園のゴリラの繁殖に繋がったと信じております。
自然保護(見守ることが中心の活動)とは、異なる保全活動
近年になって域内保全について、動物園の役割が注目されるようになりました。当園は隣接する住吉海岸に上陸するアカウミガメの調査研究を宮崎大学、地域の研究者等と共に組織する宮崎野生動物研究会のメンバーとして既に45年近く携わって参りました。ここでも、これまでの自然保護(見守ることが中心の活動)とは異なり。保全、つまり人が自然に共に係わっていかなくてはならなくなりました。
アカウミガメの保全として過去に行われていた卵巣の人工な移植が悪い影響が大きく、決して行ってはいけない手段だということが明白になりました。そこで、海岸の保全が必須となりました。宮崎野生動物研究会は、このプログラムに参画しています。
また、動物園の域外保全では、宮崎県と共同でコシジロヤマドリの繁殖、日動水と共同でミゾゴイ、そして、環境省に日動水の一員としてアマミトゲネズミの繁殖に取り組みました。(詳細は省略)
成果に自負、宮崎に感謝
これらのプログラムに参画できた事も、成果を上げることができた事も、動物園の保全への姿勢は勿論スタッフ飼育員の切磋琢磨とたゆまぬ努力があったからです。忘れてはならないことが宮崎大学等の研究者との連携です。そして、何よりも、全てが、宮崎という環境が上手く導いて頂いたと思っています。
寄稿者profile
出口智久 (でぐちとしひさ 1953年生まれ)
略歴
(特非)宮崎野生動物研究会 事務局長
宮崎市フェニックス自然動物園の前園長。大分市出身
1976年、宮崎大学農学部畜産学科卒業。1977年、フェニックス国際観光株式会社に就職しフェニックス自然動物園の飼育課に配属。以後、飼育員として、アジア、アフリカ地域の大形草食動物、チンパンジーなどの霊長類や鳥類、ニホンカモシカ、コシジロヤマドリ、モグラなどの国内産野生動物、アカクビワラビーなどの有袋類、爬虫類他、様々な野生動物、産業動物の飼育や繁殖に携わる。
1989年、カナダとの飼育キーパー交換研修にてウィニペグ市のアッシニボイン動物園にて海外動物園の飼育員を経験。
2001年、フェニックス国際観光株式会社倒産、動物園の経営が宮崎市となり、宮崎市と宮崎銀行が設立した宮崎市フェニックス自然動物園管理株式会社に継続採用され飼育課長として配属。2004~2021年、同動物園園長。2012~2020年(公社)日本動物園水族館協会理事、2016年~2020年同協会副会長。現在は宮崎野生動物研究会事務局長(副理事長)。九州医療科学大学ならびに宮崎総合学院の非常勤講師、宮崎県博物館協議会委員などを務めている。
新聞掲載
- わくわく動物図鑑:宮崎市フェニックス自然動物園(朝日新聞宮崎総局2009年~2010年)
- シリーズ自分史:動物とともに(宮崎日日新聞2022年~2023年)
- ふるさと宮崎自然図鑑:宮崎野生動物研究会員共同投稿(2023年~)
機関紙(掲載・編集)
- あしあと(フェニックス自然動物園)
- わいるどらいふ(宮崎野生動物研究会)
- どうぶつだより(宮崎市フェニックス自然動物園)
監修
- 宮崎市フェニックス自然動物園50周年記念誌「50年のあしおと」(宮崎市フェニックス自然動物園)